暮らしの「管理」に対する考え

暮らしの「管理」とは

 誰もが、自分あるいは自分たちの「暮らし」を考えるにあたって、「管理」という視点は外すことができません。

しかし、管理という言葉には様々な意味合いが含まれています。暮らしの「管理」とは、どのようなことをするのでしょうか?

私は「暮らしの管理」という言葉の意味を、暮らしの「維持」「保全」であると考えています。

私がこのサイトを使って皆さんに表現したいことは2つ。

自分や自分たちの暮らしを守るため「暮らしの管理」について、意識を深めませんかという提案と、私はこう考えてこうやってみましたという記録の発信です。

 

暮らしの管理という、ありふれたテーマですけど、新型コロナや各種紛争や気候変動など、当たり前でない出来事が次々に起こっているこの時代に、改めて捉え直していかなければならないものだと考えています。

暮らしを管理する目的は何か?

暮らしを管理する目的は、暮らしの維持と保全を目指すことです。

私たちが普段、不平不満はあれども何とか平穏で暮らしていると感じることが出来ているのは、どこかでその状態を保全している「管理」のチカラが働いて上手く機能しているからです。

しかし、暮らしの管理はヤヤコシイ

しかし、暮らしを管理することは非常に難しいです。

なぜなら、管理がうまくいっていると認識しているときに、管理の意識は遠のくからです。

管理を意識するときは、暮らしがうまくいっていないときなのです。

私たちは普段から四六時中「管理」を意識することが出来ません。

これが、暮らしの管理のヤヤコシイところです。

しかも、管理は100%上手くいかない

しかも、暮らしの管理が100%上手くいくことはありません。

100%上手くいっていると感じるときがあるかも知れませんか、それは有限です。

なぜなら、管理する対象はもちろん、管理する自分自身も常に変化しているからです。

いくら強固なシステムを持って管理したところで、変化に対応するメンテナンスを怠っていては破綻が生じます。

管理の対象には「見えない部分」がある

暮らしの管理が100%上手くいくことはない、ということにもつながる事柄ですが…。

管理の対象と自分が相対しているのは、あくまで対象の一部分であって全体ではありません。
管理が上手くいった時というのは、管理の対象の一部分をその時にたまたま「管理」出来たということであります。
あなたが日々の食材をスーパーへ買い物に行ったとします。陳列された商品の中から必要なものを購入した時、あなたの暮らしの「食」の部分については管理が上手くいったと言えるでしょう。しかし、買い物をする際にスーパーのバックヤードでその商品がどこからどのように運ばれてきて、誰の手によって包装・陳列されたのか?という、スーパー側からみた運営の管理は、あなたの暮らしの「食」についての管理と接している部分は、ごく一部に過ぎないと言えるのではないでしょうか?

それでも、私たちは暮らしを管理しなければならない

100%上手くできないなら、管理なんてする必要はないじゃないか?

いや、それは違います。

私たちは、自分あるいは自分たちで自らの暮らしを管理し続けていかなければなりません。

なぜならば、暮らしを管理していくことは、我々が生き物として宿命的に持っている「野蛮」に浸食されないための抗い(あらがい)だからです。

それでは、どうやって管理していけばよいだろう

じゃあ、どうやって管理すれば暮らしがうまくいくのだろう?

そんな問いを発する方に、私は答えます。

 

「知らんがな。」と

 

私の暮らしを管理していく思索と行動は、あくまで私自身や身の周りに起こる事象に対して起こすものです。

なので、それが上手くいくかどうかも分からないですし、上手くいったとしても、あなたが同じ行動をして同じ結果が出ることは、恐らくないでしょうから。

私の暮らしの現場と、あなたの暮らしの現場は、全く同じではありません。状況の違いに応じて対応の仕様は変わるはずですから。どう変えたらよいのかは、その現場に居ない限り私には分かりません。居たならば、助言のひとつくらいは出来るでしょうけど。

暮らしの管理には何が必要か?

暮らしを管理するときにおける実際は、最小の社会的単位である(と私は認識している)自分自身と、その他の事物事象との「折り合う」ことです。

それには、4つの要素が必要だと思っています。

 

変化が必要であれば、それを変える勇気、

変化が必要だけど変化出来ない対象があるなら、それを受け入れる冷静さと寛容さ、

変化させてよいものと、変化させてはいけないものを識別する知恵、

そして、そのことを実践するために必要不可欠な、自分自身の身体の健全さです。

暮らしの管理の「普段」は何か

それでは、暮らしを管理するときの「普段」は、どういったものなのか。

それは、とてもシンプルです。

自分や自分たちの目の前で起こる事象と向き合い、目を配ることです。

 

すると、色々と分からないことや知らないことに出くわします。

そうなると、相手と「折り合う」ためには、それらを少しでも理解するための「学び」が必要になります。

また、学んだ事柄を少しでも理解しているのかどうか「実践」も必要になります。

そして、それらを「記録」することも役に立つでしょう。

 

要は、身の周りに興味を持ち続けることが、暮らしの管理の「普段」です。

スマホやイヤホンの画面や音に囲まれた暮らしとは、少し相性が悪いものではないかと思っています。

ところで「管理」は資本主義と相性が悪い

「管理」の視座は、普段の暮らしでも仕事においても有用であり、必要であるものだと思っています。

しかし、「管理」が上手くいっているのかどうかは、それにかかる時間や運動量という定量的な値の大小と関連がありません。

しかも、先に述べたように、管理は常に100%上手くいくわけはありません。

このことから「管理」という行為は、資本主義と相性が非常に悪いと感じています。

「私がアナタの何某を管理してあげますから、月額◎◎◎円ください。」

みたいな事業は、実にウサン臭いのであります。

「管理」の視座は、保守的であらざるを得ない

「衣食住」の安定は、暮らしを「管理」するための素地であります。

社会環境の変容に上手く対応出来ようが出来なかろうが、日々の暮らしに必ず必要なものであります。

したがって暮らしの「管理」を目指す視座は、保守的であらざるを得ません。

急進的な改革を主張するラディカルな設計主義的考えに対しては、その理性の無謬性(むびゅうせい)に対して徹底的に疑いのまなざしを持って対峙します。

とは言え、「管理」の視座はリベラルであることを止めてはならない

暮らしを「管理」するためには、日々変化する現実に対峙して対応を迫られます。

どうやって対応すればよいのか?という問題を解決・改善する指針として、私は歴史や慣習として受け継がれている「社会的経験知」を持って臨むべきと考えます。そして、臨んだ結果に起こった変化を蓄積して次の世代へ伝えていく義務を持っていると考えます。

「管理」の視座が持つ「保守」とは、昔に戻ったら良いという、頭の悪い「復古主義」でもなく、現在のルールや制度がこうなっているのだから変えてはいけないという、頭の固い「反動主義」でもありません。

暮らしの「管理」は、日々変化して対峙する現実に対して、何を変えていけばよいのか、何を変えてはならないのかを見極め続ける行為であると言えるでしょう。そして、見極めるための知恵として前述した「社会的経験知」と、対峙するモノゴトに対する冷静さと寛容さを持って、絶えず平衡を保つように変化させていく行為であると考えています。

つまり、「管理」の視座は保守的であらざるを得ないのですけど、暮らしの「管理」の実際はリベラルであることを止めては対応できません。
改革とは、日々起こる大小の変化や不変化の事柄に対応し続けた結果の先に現れる必要であって、最初に改革ありきで歴史や慣習を壊して生まれるものではないのです。