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程々にしないとね・・武器という言葉の使いよう

今日は、最近よく思い浮かぶ事柄を書きしるしておこうという内容。

 

去年(2020年)あたりからですかね・・・、大阪の書斎(紀伊国屋梅田本店)では、白井聡さんの「武器としての資本論」、瀧本哲史さんのブキケツこと「武器としての決断思考」などなど、「武器としての・・・」というタイトルの書籍が平積み・面陳列されているのが目立ってきたような気がしました。
何冊かは「棚からひと掴み」して一通り読んだあと、家でいつでも読める状態にしております。面白かったですから。

 

 参考記事:武器としての資本論~松岡さんの「座・読書」

 

「武器としての〇▲※」

 

読んでもらうため、手に取ってもらうため、買ってもらうためにインパクトのあるタイトルをつけるのはもっともなことです。
コロナ禍で深刻なダメージを受けた方々にとって、自身の生活を守るため・切り拓くために「武器」という言葉が人々にとって平時よりも沁み込みやすいものになっているかも知れません。

 

ただね、ただですね、

 

「武器」という言葉の使い過ぎは少々物騒なので気を付けなければならないと思います。

読み手・買い手の側は、よくよく注意するべきです。

 

私は「暮らしの道具」としてWebサイトを自分自身で使いこなすことの大切さや面白さを提案しています。
この立場から述べると、「武器」という言葉をわざわざ使わなくったって「道具」はいつでも「武器」になり得るのです。なのに「武器」という言葉を乱用してしまうと「武器」を「武器」としてでしか使うことが出来ないヒトやその環境生成に加担することにならないかという危惧を抱くのです。そもそも「武器」とは「道具」の使いみちのひとつに過ぎないのですから。

「道具」の使い方を真剣に学んでいけば「武器」としての使い方も同時に身につくはずです。何も特別なことではありません。
一番大切なのは「武器」としての使い方を身につけることではなく、「道具」を「武器」として使ったときのあらゆる可能性を想定して学んでおくことだと思っています。

 

「道具」を「武器」として使うに至る前に、そうならないよう、日々の暮らしの中で学びや気働きに励むべきなんです。

 

 

っと、世間のザワザワが目立ってきたこの時期だから、自分の気持ちを引き締める意味で書いてみました。